居間
布美枝「何しとるんですか?」
茂「うん このにおいだ。 あの時かいだのは やっぱり 赤ん坊のにおいだなあ。」
布美枝「におい?」
茂「戦地で 腕を やられたろ? もう ダメかと思ったりもしたが よんなってきた頃 傷口から 赤ん坊の においがしてきたんだ。」
布美枝「赤ん坊の におい?」
茂「ああ。 これで 俺は助かる。 生きて 内地へ戻れる。 そげ思った。 命のにおいだ。 なあ 藍子。」
布美枝「ええ名前。 よかったなあ 藍子。」
<年が明けて 昭和38年の正月の3日>
戌井「藍子ちゃんか~ いい名前ですねえ!」
布美枝「はい。」
戌井「あの これ うちの女房からです。 おもちゃと 赤ん坊の服。 うちの子の お下がりですが もし よかったら。」
布美枝「すいません。 助かります。」
戌井「ほんとは あの~ 新品を贈りたかったんですが 新年早々 手もと不如意で うちの 大蔵大臣が事のほか厳しくて。」
茂「分かります。 うちも!」
戌井「ああ ハハハハ! 実は あの… 手もと不如意には 訳が ありまして。 僕 いよいよ 出版社を始める事にしました。」
布美枝「貸本漫画の ですか?」
戌井「ええ。 去年のうちに 登記も済ませて 取り次ぎとの口座も開きました。」
茂「そら また 早手回しな。」
戌井「ええ。 とっとと進めないと うちの女房から いつ 停止命令が下るか 分からんですから。」
茂「う~む…。」
戌井「水道橋に 小さいですが 事務所も借りました。 といっても 社員は 私一人ですけどね。」
茂「しかし 勝算は あるんですかな? 今さら あんたに言う話でもないが この業界は 不景気一色です。 版元は バンバンつぶれとるし 漫画家は廃業するし 貸本業界は 大失業時代です。」
戌井「うん。」
茂「会社が船出する時に 不吉な事を言うようだが とても 前途洋々という訳には いかんですよ。」
回想
中森「私 漫画を断念しました…。」
<漫画の筆を折り ひっそりと去っていった 中森の姿が 思い浮かびました>
回想終了
戌井「分かります。 ですから 当面は 二足の草鞋を 履いていこうと思います。」
布美枝「二束の草鞋?」
戌井「はい。 漫画家と版元経営の両方で いきます。」
茂「と いうと…。」
戌井「自分の漫画は 今までどおりの 版元から出します。 会社が赤字でも 原稿料で なんとか穴埋めできますから。」
茂「なるほど。 しかし… あんたの漫画を出す版元が それを承知するかね?」
戌井「大丈夫ですよ! 貸本漫画の今後を考えたら 必ず 応援してくれるはずですから!」
茂「う~ん…。」
戌井「『貸本漫画は古い』って 言う人もいますが 僕は そうは思いません。 貸本漫画には 大人の読者がいます! ほら あの こみち書房の 太一君のような。」
布美枝「ああ はい。」
戌井「誰かが 貸本漫画を 守らなきゃいけないんですよ。 という訳で 今日は 版元設立の報告と 原稿の依頼に来ました! まず スリラー漫画の短編集を 出版します! そこで 水木さんに 1本描いてもらいたいんですが お願いします!」
茂「あんたの熱意と心意気は よう分かりました。」
戌井「はい。」
茂「しかしですよ…。 自分は 何という版元の仕事を 引き受けたら ええんでしょうか?」
戌井「え?」
茂「会社の名前! まだ伺っておらんのですが。」
戌井「あ~ そうか! ハハハハ! どうも私は 気が はやって いかんですなあ。 え~ 会社の名前は 北西出版と名付けました!」
布美枝「北西出版?」
戌井「私 戌井ですから。」
茂「酉 戌亥の方角といえば… あ だから北西出版!」
戌井「僕一人で始める会社という事で 僕自身が出版会社というつもりです。」
布美枝「ええ名前ですねえ。」
戌井「はい!」
布美枝「あ! お祝いに 1本つけましょうか! 頂いた お酒が あるんです!」
戌井「あ~ それは ありがたいです!」
(藍子の泣き声)
布美枝「あらら… どげしました? よいしょ。 さっき ミルクは飲ましたのに…。 あ… おむつかな?」
暁子「ごめんください!」
布美枝「あ! アキ姉ちゃんが来た! ちょっと すんません。 は~い!」
玄関
暁子「新年おめでとう! 来たわよ~。」
布美枝「待っとったのよ!」
暁子「おせち作ってないでしょう? 持ってきたわよ!」
布美枝「助かるわ! あ 上がって上がって。」
暁子「あらあら 藍子 ぐずちゃって どうしたのかな~! よいしょ…。 あっ! あ~…!」
布美枝「ん?」
暁子「ああ! こ… 腰が!」
布美枝「腰?」
暁子「ぎっくり腰みたい…。」
布美枝「えっ?!」
暁子「あっ!」
茂「何だ?」
戌井「どうしました?!」
布美枝「ぎっくり腰ですって!」
2人「え~! ぎっくり腰?!」
<藍子の誕生と 戌井の出版社の誕生。 おめでたい事が 重なった 年の始まりでしたが… 育児の助っ人に 思わぬ アクシデントが発生。 新米のお母ちゃんの船出は 少々 不安なものに なってしまいました>